第87話   御家禄の総帥「管実秀と釣」 T   平成16年03月17日  

御家禄とは、旧藩主の側近に居た保守派の人たちの事を云い、明治の頃、鶴岡の政財界を菅実秀が其の頭領として実権を握っていた。其の御家禄に属した子孫達は昭和の三〜四十年代まで「語家禄」と呼ばれ鶴岡の政財界を席巻していた。

実名を菅善太右衛門実秀(文政131830〜明治361903)と云い、隠居後は臥牛と号した。藩士菅九十郎実則の子として生まれる。先祖は九州の島原の乱で功を上げ、寛文10年(1670)に酒井忠義公に家禄150石で仕えと云う。

嘉永2年(1849)に父の病気の為家督を継ぎ、同6年藩主忠発の長男忠怒の近習に始まり、文久元年(1861)藩主忠寛の近習頭、同3年郡奉行を勤め家老松平権十郎を補佐して新徴組を預かり江戸市中見回りの任の補佐をする。慶応3年時の藩主忠篤の御側用人(藩主の側近で政務を取り次ぐ)となる。同4年戊辰戦争が勃発し軍事係を仰せつかり家老松平権十郎と共に藩軍を指揮し、領内に官軍を一歩も入れず奮戦した。その間隠密理に行った西郷隆盛との直接折衝が功を奏して、庄内藩は官軍に降伏したが受け入れられず玉砕した会津藩の二の舞を踏まずにすんだ。

降伏後の戦後処理の手腕を買われ、明治
2年大泉藩となった時に中老(家老職見習いで家老不在時その職を代行する役職)なり家禄900石に出世、下院へ出仕する。明治4年(1871)の廃藩置県により酒田県の権参事となる。同5年鶴岡市郊外の松ヶ岡開墾事業を指導したが、同7年のワッパ騒動の責めを負って県政から身を引く。翌8年戊辰戦争の時に世話になった西郷南州に傾倒し、松平権十郎等と共に鹿児島に赴き師事する。南州の没後鶴岡に隠棲するも、明治23年「南州翁遺訓」を書き著し西郷隆盛の事跡を広く全国に宣伝、鶴岡にあっては影の御家禄の総帥として鶴岡の政財界に腕を振るった。

この実秀と云う人は釣りも良くし、藩主酒井忠篤、忠宝兄弟及び酒井家一門の酒井調良(庄内柿=種無し柿の発見者とその普及)その他服部興惣、中村吉次(名竿師)、中村七郎右衛門等と明治を代表する名釣師でもあった。

その実秀を知る人が書いた本に「菅先生魚釣を好み、垂倫の方究めざること無し」とある。庄内竿の細身で標準竿を作ったと云われる丹羽庄右衛門に貰った愛竿「臥牛」四間三寸730cm)の見事な黒鯛竿が致道博物館の陳列棚に飾られ居る。

以前鶴岡の致道博物館の館長をしていた犬塚又四郎氏の書いた「閑鴎集」の中に臥牛の逸話を載せた「無魚の淵」と云う小文がある。

『かつて海浜に釣に出掛けたところ、風なく波なく水面は鏡のようであった。釣果は望めないだろうと竿を収め帰ろうとしたところ小魚の大群を発見した。細竿を取り出してあっという間に100匹余りを釣り上げた。餌が尽きたので帰る途中、長竿を出している釣り人を発見した。臥牛が其の淵を見るにまったく魚の気配はない。海底の石が数えかれるほどである。そこで「アソコの岩で釣った方が良い。まだ餌が残っているから必ず釣れますから。いつまでもここで釣っても釣れませんよ。」と教えるも「分かった」と云うだけで尚も長竿を垂れて動こうとはしない。そこで菅氏曰く「ああ、その始め吾が語を聞きて意動けり。然れども終に己を捨てる事あたわず。終日止まると云えどもあに一魚を獲すべけんやと』

菅氏曰く「自分は今あの釣り人を笑ったが、老魚から見れば長竿を無魚の淵に糸を垂れていると同じような物だ。これは魚釣だけではなく世の人々の多くがあの釣人が長竿を出している愚を我々は日常毎日繰りかえしている。」と。これは孟子の教えの中の「善」からの一節を引用したものであるという。

賢者は「善を求むるに己を虚しくして人に従う」、然るに愚者は「一善を得て足れりとし、其れを良しとして人を拒む」とある。

漢文の良く分からない自分には、分かった様で分からない文章であるが、ようは「賢い者は自分の思いを殺しても良いと思った事は他人の云う事に従う。しかし、愚か者は自分が思った事には邁進するが、人の云う事にはまったく耳を貸さない。」と云った事と解釈する。幕末、明治の武士の教養の深さの一端を垣間見る思いである。流石150石の中級武士から900石の家老にまで出世した人物だけの事はある。自分を含め他人の云う事に耳を貸さない人間の如何に多い事か・・・。

釣の名人の「釣りの話」は例え話でもあっても何か迫力が違うと感じた。経験の浅い日曜釣師は、その日の汐、波、風を見て釣れる釣れないと判断の出来る経験の多い先輩の話をよく耳を傾け、その忠告を素直に受け入れる広き心が必要ではないか?と考えさせられる一文である。